昭和天皇と南方熊楠の共通点「全ての命に対する愛情」(愛知の現代アート展の考察)

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愛知県で開かれている現代アートの祭典で展示作品の内容に反発が広った件について(上記URLはPresident Online)

昭和天皇は卓越した菌の研究者であられたそうで、同じく菌の研究者である南方熊楠という男性が陛下に採集した菌のサンプルをキャラメルの箱に入れて渡したところ、陛下はその素朴で飾らない熊楠の感性に大変お喜びされたと、あるドキュメンタリー番組で見聞した。

本当に泣けてくるほど、昭和天皇陛下の「生きとし生けるもの達」に対する愛情溢れるお優しい視線は神のようだと思う。


雑草という草はない
野に咲く花にも、飾られるは何も等しく価値がある…(昭和天皇のお言葉)


そんなお心の方が、多くの人々が苦しんでこの日本の地も他国の地までも人々の血で染まり、山々も川も真っ赤に焼けていくことの理由が、ご自身の為であるということを望まれただろうか?

陛下は、人間どころか菌ですら大切にその存在の意味を研究されて、南方熊楠が「はい、どーぞ!」と渡したキャラメルの箱に目を細められて、その飾らない態度に癒やされたという心底愛情溢れる御方だったのだろうと察する。
ご自身の虚像によって多くの国民だけでなく、多くの他国の人達をも傷ついて死んでいったことの事実を、愛情溢れる昭和天皇はお心を掻きむしられる程、どれほどお辛かっただろうと察するにあまりある。

昭和天皇陛下はその虚像を焼き捨てて欲しいと思われたに違いない。
二度とこのような大惨事をご自身の名の下でしないで欲しいと思われたと思う。
そのお心を私達は知るべきだと思う。

芸術にはその裏側に声なき声の叫びがある。

有名な画家のアルフォンスミュシャは「スラヴ叙事詩」という絵画を描いて反戦を訴え、ナチスドイツ軍に捕らえられ牢獄で命を落としたと聞いた。

私はミュシャの絵画が好きで展示会にも何度も足を運んだが、あのアルフォンスミュシャが牢獄で亡くなったと知って愕然とした。

権力とは、いつの世も、花のように儚い命の叫びを踏みにじる。


少女像について、慰安婦問題があったのかなかったのか…?

もし、日本の原爆投下がなかったと言われたら?
済んだことをいつまでもグダグダ言うな!広島ドームは台風で吹き飛ばされたかもしれないと言われたら?
(アメリカ人は原爆ドームを訪れて、黙って展示物を見て、深く考えてくれているように思う。)

一蹴されては傷ついた人達の心の痛みは永遠に消えない。
永遠に消えないのだ。
だから原爆ドームがある。
それはどの国の人も、同じ。
少女像も同じ。
少女像が増える度にエキセントリックになってしまうのは何故?
少女像が意味するものに責められているような気がするから?
その心の焦燥感は何故?
その胸に迫ってくる怒りはどうして?
歴史を知らない人が見れば、ただの少女像なだけである。

芸術とはその意味するところに無言の叫びがある。
その叫びを描き続けて、逆鱗に触れミュシャは投獄され、そこで亡くなった。

芸術とは何か?
それは美しいだけでは済まされない生命の溢れ出す喜び怒り悲しみ苦悩楽しさが虹のように表現されることによって、見る側にその一瞬一瞬が確かに細部にわたって様々な命があるのだと脈打つ鼓動の存在を訴え、そこに命とは何かを改めて問う…そういった役割があるのだと思う。

我々は同じ人間なのだから。
しかもこの地球上には人間だけが存在するのではなく、様々な物言わぬ生命が宿っている。

人として、人の存在をお互いに認め合い、そしてあらゆる生命の存在を認める…地球環境が後戻り出来無い程に傷ついている中で、これ以上戦争で地球環境の破壊をしないためにも、我々は国益も大切だが、国を超えた、人としての痛みの感性を分かち合うことによって戦争が避けられたら、それでこそ悲しみを乗り越えたと言えるのではないか?

人の痛み悲しみに目を向ける勇気が平和や幸せにつながっていくと、私は思う。

芸術とはそういう心の叫びである。

そこに目を向け、ひとりひとり見る側が心を熟成させることこそ国益につながっていくと思うのである。